言葉と世界
言葉と物、どちらが先にあるのだろうか
私達が学校で外国語を教わるとき、「Dog=犬」のように単語を教わる
考えてみると、これは少し変な話である。
ぼくは犬の種類について詳しくはないから、柴犬やプードルがどのように世界に分布していて、どこの大陸で発生したのかなどは知らないが、少なくとも「Dog」と「犬」という言葉のできた時と場所は、同じではないだろう。
だから、その言葉で指し示されていた範囲は本来異なるはずなのである。
「犬」で指すのは川上犬、屋久島犬、等々、もともと日本にいた犬であり、「Dog」で指すのはウィペット、エアデールテリア等々英語圏にいた犬であったはずである。
(もちろんどちらにも住んでいて犬とDogが最初から該当するような犬もいたかもしれないが)
これらがどのように混ざっていき、同じものだと(少なくとも翻訳可能なものだと)されていったかは想像に任せるしかないが、ともかくこれらは、元々は重なりはするものの明らかに同一ではない集合なのであった。
上記の話は別の言語との対応はどうなっているのかという問題を示しているが、
同じ言語内でも、辞書を見ればわかるように、言葉の説明は言葉で行うことができる。
言葉と言葉の対応はどのようになっているのだろうか?
言葉とモノとの対応は犬とDogのように食い違うことはないのか?
そして、新語が生み出されるとき、それはどのように自分の範囲を確定するのか?
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あなたが生い茂る森の中で数km先に鹿を見つけたとしよう
そのときの体験を想像してほしい
一瞬間の絵としてその光景を切り取って眺めるとき、私達は、そこに鹿がおり、木漏れ日と陰が斑模様をなしてその鹿にかかっていて、大きな木には虫がとまっていて、地面には数日前の水たまりが残っていて、というようなあらゆる細部を見て取り、言語化することができる。
これらは、体験の中から視覚のみを切り取り、時間を切り取り、1枚の絵にした上で、そこに描かれているものをそれぞれここからここは鹿、ここからここは水たまり、といったように大まかに分類したときだけできることである
以上のように、私達は当然のように体験の中から感覚を分け、時間を切り取り、部分を切り分け、種類を分ける。
これは我々に元々備わっていた能力もあるだろうが、明らかにそれだけではなく、言語の働きがなにより大きい。
物理的な構造は一緒だが言葉を持たない生物、たとえば原始人が同じ体験をしたとしよう。その彼の見る光景、体験を考えてほしい。
(人間の赤ん坊が同じ体験をしたと考えてもいい)
彼がそれを一枚の絵として見て取れたとしよう。
彼は鹿の角と、鹿の角に似た真横の枝を別々のものだと感じるだろうか。
彼は光景から鹿と花と木と土と、、、といったように、部分で縁取りするだろうか。
彼は地面に咲いている2つの花を別々の植物として受け取るだろうか。
同じ植物の2つの部分だと受け取らないだろうか。
おそらく彼は、それらの名前を知らなければ、すべて同じものと、ただの一枚の絵(我々であればたまたま絵の具をぶちまけたらできたような絵と思うような絵)だと感じるはずである。
そしてさらに、彼がそれを一枚の絵でみるとも限らないのである。
それは時間的な連続の中で、生きた体験のままで、1瞬間を切り取ることなどできないかもしれない。その場合、細部に区分けすることなどできるはずもないだろう。
(音楽、メロディのようなものであれば、連続した体験として受け取れなければ認識できないが。)
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我々は世界にはまず物があり、そのそれぞれに名前をつけ、言葉が生まれると思っている。しかし、既に言葉を持っている我々の想像に反して、これは間違っているのではないか。
まず鹿とか犬とかいった動物がおり、そのそれぞれに鹿とか犬といった名前をつけてきた、のではなく、
鹿とか犬は、我々が鹿とか犬といった言葉を生み出したときに、同時に発生した範囲、区切り、意味なのではないか。
実際、我々が現実に犬を見た時、「あの縁取り」で世界の中での犬を認識しているが、顔だけをいぬとして、尻尾は別の「ぬい」という生き物だと捉えてもおかしくはなかったはずである。
当然なんらかの理由があって、私達はあらゆるものに対して「この縁取り」をしてきたのだろうが、他の理由が存在し、それに従っていても別によかったはずである。
私達が(ただ自分が知らなかっただけではない)新語を知る、作るときを考えてみれば、実際そうではないか。
それとも、物理的なものとそうではないものでは、このことになにか本質的な違いがあるのだろうか
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もし、世界にはまず物があり、それに名前をつけ言葉が生まれたという構図が間違っており、
正しいのは
名前(言葉)と同時に物が生まれるという構図だとすれば
言葉のない世界には物がないのだろうか
人間のいない世界には、世界がないのだろうか
関連
など