健康関連のGigazine記事抜粋

■睡眠関連

▽警鐘系

・慢性的な睡眠不足が脳の神経にダメージを与えていることが明らかに

https://gigazine.net/news/20140324-sleep-loss-brain-cells/

The Journal of Neuroscienceで公表されたPenn Medicineの研究によると、慢性的な睡眠不足は以前考えられていたよりも深刻な問題を含んでおり、脳細胞に対して元に戻らないダメージを与えることが明らかになりました。

「一般的に睡眠不足によって認識力が低下しても、週末などにたっぷりと睡眠をとることで全快すると考えられていますが、複数の研究によると、睡眠不足によって傷ついた脳は、3日間の代替睡眠をとっても集中力や認識力が標準レベルまで回復することがありません」と論文の著者であるシグリット・ビージー博士は語っています。

また、マウスの実験によって睡眠不足が青斑核に影響を与えるだけでなく、アルツハイマー病・パーキンソン病のような神経変性疾患潜在的に加速していることも証明されているとのこと。

平日の睡眠時間が6時間以下だと、週末に寝だめをしても認知能力を回復できないことが明らかに

https://gigazine.net/news/20110615_weekend_lie_in/

平日の睡眠時間が1晩あたり6時間以下の場合、週末に10時間ほど眠っても認知能力の回復は難しかったとのこと。認知能力が低下してしまうと当然ながら仕事の効率も落ちるため、平日にもなるべく睡眠時間を確保した方がよいということのようです。

週末の寝だめの有効性についての研究結果は以下から。Weekend lie-in doesn’t make up for lack of sleep during week | Mail Online
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2003652/Weekend-lie-doesnt-make-lack-sleep-week.html

「平日に蓄積された睡眠不足を補う目的で週末に長く眠るいわゆる『寝だめ』は、確かに眠気を解消する効果はありましたが、睡眠不足に起因する認知機能の能率低下を改善する効果は見られませんでした」と、Vgontzas教授は語ります。

睡眠不足は記憶喪失の原因となり、さらにアルツハイマーの元となるタンパク質も蓄積してしまうことが判明

https://gigazine.net/news/20150603-sleep-deficit-memory-loss-alzheimer/

 

▽対処系

・睡眠の質を高める3つのシンプルな方法

https://gigazine.net/news/20130911-simple-way-for-good-sleep/

◆1:真っ黒な部屋での睡眠
◆2:サンライズクロック ※太陽を模した機能の目覚まし時計
◆3:最適温度
室温は睡眠の質に大きな影響を与えることが分かっており、身体が暑い、寒いと感じると深い睡眠から呼び起こされることで睡眠の質が悪化します。研究によると、睡眠にとって最適な室温は華氏60度(15.6℃)から68度(20℃)と比較的低いことが判明しています。

・完璧なお昼寝をする方法

http://gigazine.net/news/20080724_how_to_nap/

・昼寝を開始するのは何時がいいのか?
昼寝を開始するタイミングについても2種類あります。1つめは「ヒバリ」型。これは午前6時には起き、午後10時には就寝するというタイプの人のこと。このタイプの人は午後1時か午後1時半から昼寝をするのがベストです。
2つめのタイプが「フクロウ」型。これは午前1時頃、つまり夜中に就寝し、午前8時か午前9時に起きるというタイプの人。この場合は午後2時半か午後3時がお昼寝タイムになります。

・何時間昼寝をすればいいのか?

短い昼寝をしてリフレッシュするのであれば20分間が目安。コツは昼寝する前にコーヒーを飲んでから寝ること。コーヒーに含まれているカフェインは効いてくるまで20分から30分かかるため、こうすることで目覚めをすっきりさせることができるというわけ。

また、昼寝をする時間は最大でも45分間。それ以上寝てしまうと、目覚めてもふらつきを感じてしまい、半時間ほどの間、ぼーっとしてしまうことになってしまいます。
※Kanataが以前読んだ本では、たしか30分以上はNGというふうに書かれていました。20分前後を数回に時間おいて分けたほうがいいのかなって感じ

・昼寝する際に用意しておくとよいもの

目覚まし時計:指定した時刻に目覚めるようにするため
暗い部屋、あるいは目隠し:刺激が少ない方がよく眠れる
耳栓、あるいはホワイトノイズ:騒音が気になって眠れない場合に使うと効果あり
軽い毛布、ブランケットなど:体を温めすぎると眠りすぎてしまうので、軽く保温する程度でOK

・寝不足な日の効率性を上げる方法は「よく寝た」と頭の中で思い込むこと

https://gigazine.net/news/20140127-believing-slept-well/

「プラシーボ睡眠」と研究者たちから呼ばれており、研究結果によると、「十分に眠っていない」という意識は日中のパフォーマンスを低下させる一因になり、もしも快適に1日を過ごしたいならば睡眠不足であってもそれを完全に忘れてしまうのが良い、とのことです。

この研究結果から、「よく寝た」と心の中で思い込むことにより、寝不足な脳でもパフォーマンスを向上させることができると分かりました。これは反対に言えば、「2時間しか寝てないわ~」といった寝てないアピールばかりしているとその人のパフォーマンスが低下するだろうということも示唆している

■その他

アルツハイマーにはリンゴ、前立腺癌にはザクロ、目的別に選びたいジュースの健康効果いろいろ

https://gigazine.net/news/20101107_best_juice_for_you/

※「トマトが日焼け対策によい」とかけっこうおもしろかった 通読推奨

言葉と世界

言葉と物、どちらが先にあるのだろうか

 

私達が学校で外国語を教わるとき、「Dog=犬」のように単語を教わる

考えてみると、これは少し変な話である。

ぼくは犬の種類について詳しくはないから、柴犬やプードルがどのように世界に分布していて、どこの大陸で発生したのかなどは知らないが、少なくとも「Dog」と「犬」という言葉のできた時と場所は、同じではないだろう。

だから、その言葉で指し示されていた範囲は本来異なるはずなのである。

「犬」で指すのは川上犬、屋久島犬、等々、もともと日本にいた犬であり、「Dog」で指すのはウィペット、エアデールテリア等々英語圏にいた犬であったはずである。

(もちろんどちらにも住んでいて犬とDogが最初から該当するような犬もいたかもしれないが)

これらがどのように混ざっていき、同じものだと(少なくとも翻訳可能なものだと)されていったかは想像に任せるしかないが、ともかくこれらは、元々は重なりはするものの明らかに同一ではない集合なのであった。

 

上記の話は別の言語との対応はどうなっているのかという問題を示しているが、

同じ言語内でも、辞書を見ればわかるように、言葉の説明は言葉で行うことができる。

言葉と言葉の対応はどのようになっているのだろうか?

言葉とモノとの対応は犬とDogのように食い違うことはないのか?

そして、新語が生み出されるとき、それはどのように自分の範囲を確定するのか?

===

あなたが生い茂る森の中で数km先に鹿を見つけたとしよう

そのときの体験を想像してほしい

一瞬間の絵としてその光景を切り取って眺めるとき、私達は、そこに鹿がおり、木漏れ日と陰が斑模様をなしてその鹿にかかっていて、大きな木には虫がとまっていて、地面には数日前の水たまりが残っていて、というようなあらゆる細部を見て取り、言語化することができる。

これらは、体験の中から視覚のみを切り取り、時間を切り取り、1枚の絵にした上で、そこに描かれているものをそれぞれここからここは鹿、ここからここは水たまり、といったように大まかに分類したときだけできることである

以上のように、私達は当然のように体験の中から感覚を分け、時間を切り取り、部分を切り分け、種類を分ける。

これは我々に元々備わっていた能力もあるだろうが、明らかにそれだけではなく、言語の働きがなにより大きい。

物理的な構造は一緒だが言葉を持たない生物、たとえば原始人が同じ体験をしたとしよう。その彼の見る光景、体験を考えてほしい。

(人間の赤ん坊が同じ体験をしたと考えてもいい)

彼がそれを一枚の絵として見て取れたとしよう。

彼は鹿の角と、鹿の角に似た真横の枝を別々のものだと感じるだろうか。

彼は光景から鹿と花と木と土と、、、といったように、部分で縁取りするだろうか。

彼は地面に咲いている2つの花を別々の植物として受け取るだろうか。

同じ植物の2つの部分だと受け取らないだろうか。

おそらく彼は、それらの名前を知らなければ、すべて同じものと、ただの一枚の絵(我々であればたまたま絵の具をぶちまけたらできたような絵と思うような絵)だと感じるはずである。

そしてさらに、彼がそれを一枚の絵でみるとも限らないのである。

それは時間的な連続の中で、生きた体験のままで、1瞬間を切り取ることなどできないかもしれない。その場合、細部に区分けすることなどできるはずもないだろう。

(音楽、メロディのようなものであれば、連続した体験として受け取れなければ認識できないが。)

===

我々は世界にはまず物があり、そのそれぞれに名前をつけ、言葉が生まれると思っている。しかし、既に言葉を持っている我々の想像に反して、これは間違っているのではないか。

まず鹿とか犬とかいった動物がおり、そのそれぞれに鹿とか犬といった名前をつけてきた、のではなく、

鹿とか犬は、我々が鹿とか犬といった言葉を生み出したときに、同時に発生した範囲、区切り、意味なのではないか。

実際、我々が現実に犬を見た時、「あの縁取り」で世界の中での犬を認識しているが、顔だけをいぬとして、尻尾は別の「ぬい」という生き物だと捉えてもおかしくはなかったはずである。

当然なんらかの理由があって、私達はあらゆるものに対して「この縁取り」をしてきたのだろうが、他の理由が存在し、それに従っていても別によかったはずである。

私達が(ただ自分が知らなかっただけではない)新語を知る、作るときを考えてみれば、実際そうではないか。

それとも、物理的なものとそうではないものでは、このことになにか本質的な違いがあるのだろうか

===

もし、世界にはまず物があり、それに名前をつけ言葉が生まれたという構図が間違っており、

正しいのは

名前(言葉)と同時に物が生まれるという構図だとすれば

言葉のない世界には物がないのだろうか

人間のいない世界には、世界がないのだろうか

 

関連

ウィトゲンシュタイン

ソシュール

など

知覚と存在 覚え書き

人類が絶滅したら、世界はあるのだろうか

なにを言っているのか、と思われるかもしれない

たとえばコウモリは目が見えず、私達多くの動物とは違い超音波で(エコーロケーションを行って位置や距離を測っている)世界を見ていると言われる

実際には彼らは光を使う視覚をしっかり持っているのだが

目が見えない生物、つまり光を感知する器官を持たない生物が存在するというのは十分ありうることである

たとえばモグラのように、地中で生活している生物はほとんど光による情報を必要としないだろう

ではもし、この世に「光を感知できない生物」しかいなければ

その世界に光はないことになるのだろうか

これは少し強引に思える。

存在が認識できないからといって、その存在がないということにはならないだろう

しかし、我々は実際には光を感知できる動物がいることを知っているからそう思うのではないか

この世に「最初から」光を感知できない生物しか居なかったとしたらどうだろうか。

この場合でも、世界に光はあったと言えるのだろうか

光の場合と同じように、音や匂いについても考えたらどうだろう

音の聞こえない生物しか居ない世界には、音がないことにはならないだろうか

なぜかはわからないが、これは光の場合とは別で、明らかに音がないと言えるように思える

音無し世界でも、物や空気の振動はあるだろう。しかし、音はあくまで生物がそれを聴覚で感知したときにそこで発生するものである。といいたくなる。

物理的に考えれば、音の正体は物の振動/空気の振動だが、これらは音そのものではない。と思う。

匂いの場合はどうか。

匂いの感知できない生物しかい居ない世界に、匂いはあるのか

ないと思われる。

匂いの原因は化学物質とかそういうものであるにしても、それらは匂いそのものではない。

上のような話が正しいとすれば、

一体光、音、匂いに対する我々の扱いの違いはなんなのだろうか

(原子や分子という、物質現象を説明するのに使われる概念を「実際に存在する」と思ってしまうことと関連している)

 

光、音、匂いだけでなく、いま我々が知っている生物の感覚すべてがなかったとしたらどうだろうか

つまり、この世界に生物が存在しなかったとしたらどうだろうか

その世界は存在しているといえるのだろうか

ルールの内と外ーーー意味も価値も善悪も、もともと世界に存在しない。

たとえば「花は綺麗」「泥は汚い」というとき、その綺麗/汚いという言葉の意味は、それらの語の正しい使い方と絡まっていて、実際に私たちの多くがそう感じるということとは関係なく(それらの事実に支えられてはいるのだが)、その使い方自体がそもそも綺麗/汚いという言葉の意味なのだ、と言うことができる。

※花は汚い、泥は綺麗だと言い、そして実際にそう感じるような感性を持った動物の言葉は、たとえ音や文字の見た目は一緒であっても、我々の理解する言葉やその意味とは別のなにかを理解し使用しているだろう。

 

このような話を聞くといつも感じることがある。もしこういう主張が正しいとすれば(言葉とその使用、そしてその意味が結びついているならば)、存在するはずの意味という意味すべてが

その意味を、価値を(つまり居場所を)奪われはしないだろうか、という疑念である。 

 

どういうことか。

もし現実に言葉と意味が上のような事情であるならば、

言葉の価値というものは以下の例に似ていないだろうか。

 

「この古いおもちゃは鑑定によると三百万円の価値を持つ ※ただしおもちゃコレクターの間において」

このような場合にいわれる一般人には理解しがたい「価値」と、その構図は似ていないだろうか。

「ここでいわれた価値は、一般人にとっては存在しないも同然の価値ではないか」

そう感じるのである。

 

つまり、 「ある空間/場ではこのような意味を持つが、その空間の外では一切意味を持たない」そういうものは(おもちゃコレクターの間での価値のあるおもちゃのように)容易に想像できるが、じっさいのところ、森羅万象がそうなのではないか。と思えるのである。

そして、そうだとすれば、森羅万象から意味の意味性とでもいうべきものが(つまり意味というものの価値が)奪われてしまうのではないか、という疑念が湧きでてくる。

 

道徳や倫理に関する概念の場合は、いままでの例より深刻に見える。 端的にいえば、善悪の概念は、それを信じるものの間でしか存在しない、と言ったらどうだろう。 殺人が法的に有罪であるかは、その国の法律を見れば明らかで、その適用範囲もほとんどはっきりしている。当然、その国の中では有罪であり、国の外では有罪ではない、正しくは有罪でも無罪でもないのである。※ここには疑念を差し挟む余地はある 

しかし、法律とは違い、倫理や信仰の場合はそうもいかない。どう考えても、「どこで起きようと」基本的に悪は悪なのである。もちろん、このような場合には許される、といったような例外はそれぞれ存在するだろうが、倫理が持つこの「時空を限定しない」という性質はとても厄介である。この性質が、先の疑念とぶつかりあうのである。

つまり、もし倫理概念が存在するのであれば、それはどのような時空(フィールド)においても有効でなければならない。

※しかし、意味の有無に関して、すべてのこと(森羅万象)が、ある場では意味を持つがその外では意味を持たないような、時空に対して限定的な性質を持つなら、この倫理概念が持つ特性と反発しあう。ということである。

 

だが、有効でなければならないにも関わらず、無理やり問うてみよう

「しかし、(善、悪などの)倫理概念が有効なのはどの範囲か?宗教的信仰が有効なのはどこまでか?」

「ある集団やある個人が、文化的にその倫理概念を知らなくても、その信仰を知らなくても有効なのだろうか?」

おそらく、倫理も信仰も、どこまでも有効だと答えざるをえないだろう。赤子の罪は問わないかもしれない。しかし、それは本当は悪なのだとは言わなければならない。それは彼らの本質に関わることだからだ。

(生物の居ない世界を想像してみれば、どう考えてもそこに善悪は存在しないだろう。[しかし実際には生物は存在する])

だが、私としてはかなしいが、あなたも彼らのように考えるのだろうか ?

直感ではなく、ちゃんと考えてみてほしい。

私は、法律の外に立つ人間を想像できる。同じように、倫理の外に立つ人間も想像できるように思える。

実社会において、日本に住んでいる人間は日本の法律の中にいる。

それはもちろん、法律がそういうものだから、である。我々の態度、思考とは関係ない。法律自体が(自身で規定する自分の適用範囲が)そういう意味の概念だからである。

倫理の場合にも、倫理を真に信じている人、倫理の中で暮らしている人(物心ついた頃から倫理の中に居てその外を知らない人)は、人間すべてがこの中にいると思い込んでいる。しかし、そうではない。そうではあるのだが、それは、倫理という架空のフィールドがそういう性質をもっているからそうならざるをえない、(現実がどうかに関わらず―そういうことにせざるをえない)のである。倫理の外に実際に立っている人の態度、思考とは関係ない。

 

人造の、あるいは神造のルールが設定されているという事実は、それ単独ではその内部に人を縛ることはできない。これはいかなる小さな範囲の規範、ルールに対しても同様である。(民族的にフクザツでない日本社会において盲信される)「常識」の存在も、その適用範囲を自分では絞れない。

 

だから、つまり。

意味も価値も善悪も、世界には存在しない。

それは我々がかけているメガネに書かれた、ただのラクガキに過ぎない。

 

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※そのメガネは生きるために必要で、自ら作り出したものではあるが。

※ただ論理法則だけは範囲が存在しないように思える。これは私達に備わっている認識形式だからなのかどうなのか。