ルールの内と外ーーー意味も価値も善悪も、もともと世界に存在しない。

たとえば「花は綺麗」「泥は汚い」というとき、その綺麗/汚いという言葉の意味は、それらの語の正しい使い方と絡まっていて、実際に私たちの多くがそう感じるということとは関係なく(それらの事実に支えられてはいるのだが)、その使い方自体がそもそも綺麗/汚いという言葉の意味なのだ、と言うことができる。

※花は汚い、泥は綺麗だと言い、そして実際にそう感じるような感性を持った動物の言葉は、たとえ音や文字の見た目は一緒であっても、我々の理解する言葉やその意味とは別のなにかを理解し使用しているだろう。

 

このような話を聞くといつも感じることがある。もしこういう主張が正しいとすれば(言葉とその使用、そしてその意味が結びついているならば)、存在するはずの意味という意味すべてが

その意味を、価値を(つまり居場所を)奪われはしないだろうか、という疑念である。 

 

どういうことか。

もし現実に言葉と意味が上のような事情であるならば、

言葉の価値というものは以下の例に似ていないだろうか。

 

「この古いおもちゃは鑑定によると三百万円の価値を持つ ※ただしおもちゃコレクターの間において」

このような場合にいわれる一般人には理解しがたい「価値」と、その構図は似ていないだろうか。

「ここでいわれた価値は、一般人にとっては存在しないも同然の価値ではないか」

そう感じるのである。

 

つまり、 「ある空間/場ではこのような意味を持つが、その空間の外では一切意味を持たない」そういうものは(おもちゃコレクターの間での価値のあるおもちゃのように)容易に想像できるが、じっさいのところ、森羅万象がそうなのではないか。と思えるのである。

そして、そうだとすれば、森羅万象から意味の意味性とでもいうべきものが(つまり意味というものの価値が)奪われてしまうのではないか、という疑念が湧きでてくる。

 

道徳や倫理に関する概念の場合は、いままでの例より深刻に見える。 端的にいえば、善悪の概念は、それを信じるものの間でしか存在しない、と言ったらどうだろう。 殺人が法的に有罪であるかは、その国の法律を見れば明らかで、その適用範囲もほとんどはっきりしている。当然、その国の中では有罪であり、国の外では有罪ではない、正しくは有罪でも無罪でもないのである。※ここには疑念を差し挟む余地はある 

しかし、法律とは違い、倫理や信仰の場合はそうもいかない。どう考えても、「どこで起きようと」基本的に悪は悪なのである。もちろん、このような場合には許される、といったような例外はそれぞれ存在するだろうが、倫理が持つこの「時空を限定しない」という性質はとても厄介である。この性質が、先の疑念とぶつかりあうのである。

つまり、もし倫理概念が存在するのであれば、それはどのような時空(フィールド)においても有効でなければならない。

※しかし、意味の有無に関して、すべてのこと(森羅万象)が、ある場では意味を持つがその外では意味を持たないような、時空に対して限定的な性質を持つなら、この倫理概念が持つ特性と反発しあう。ということである。

 

だが、有効でなければならないにも関わらず、無理やり問うてみよう

「しかし、(善、悪などの)倫理概念が有効なのはどの範囲か?宗教的信仰が有効なのはどこまでか?」

「ある集団やある個人が、文化的にその倫理概念を知らなくても、その信仰を知らなくても有効なのだろうか?」

おそらく、倫理も信仰も、どこまでも有効だと答えざるをえないだろう。赤子の罪は問わないかもしれない。しかし、それは本当は悪なのだとは言わなければならない。それは彼らの本質に関わることだからだ。

(生物の居ない世界を想像してみれば、どう考えてもそこに善悪は存在しないだろう。[しかし実際には生物は存在する])

だが、私としてはかなしいが、あなたも彼らのように考えるのだろうか ?

直感ではなく、ちゃんと考えてみてほしい。

私は、法律の外に立つ人間を想像できる。同じように、倫理の外に立つ人間も想像できるように思える。

実社会において、日本に住んでいる人間は日本の法律の中にいる。

それはもちろん、法律がそういうものだから、である。我々の態度、思考とは関係ない。法律自体が(自身で規定する自分の適用範囲が)そういう意味の概念だからである。

倫理の場合にも、倫理を真に信じている人、倫理の中で暮らしている人(物心ついた頃から倫理の中に居てその外を知らない人)は、人間すべてがこの中にいると思い込んでいる。しかし、そうではない。そうではあるのだが、それは、倫理という架空のフィールドがそういう性質をもっているからそうならざるをえない、(現実がどうかに関わらず―そういうことにせざるをえない)のである。倫理の外に実際に立っている人の態度、思考とは関係ない。

 

人造の、あるいは神造のルールが設定されているという事実は、それ単独ではその内部に人を縛ることはできない。これはいかなる小さな範囲の規範、ルールに対しても同様である。(民族的にフクザツでない日本社会において盲信される)「常識」の存在も、その適用範囲を自分では絞れない。

 

だから、つまり。

意味も価値も善悪も、世界には存在しない。

それは我々がかけているメガネに書かれた、ただのラクガキに過ぎない。

 

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※そのメガネは生きるために必要で、自ら作り出したものではあるが。

※ただ論理法則だけは範囲が存在しないように思える。これは私達に備わっている認識形式だからなのかどうなのか。